シャンパーニュの真髄、時を超えて愛されるブラン・ド・ブラン
メゾンが生産しているシャンパーニュはキュヴェ「S」1種類のみ。今世紀初めに造られた最初のブラン・ド・ブランで、単一品種(シャルドネ100%)、単一テロワール(コート・デ・ブラン)、単一クリュ(ル・メニル・シュール・オジェ100%)という、すべて単一であることに重点を置いた無類の芸術品ともいえるシャンパーニュ・サロンは毎ヴィンテージ平均6万本しか生産されない希少で贅沢なシャンパーニュであり、世界中の愛好家から、常に新しいヴィンテージのリリースが待ち望まれている伝説的なシャンパーニュの一つです。
20世紀初頭、パリで毛皮貿易のビジネスを成功させたエメ・サロンは、「自分と友人たちのために、特異な最高のシャンパーニュを造る」という想いを胸に、シャンパーニュに帰郷しました。コート・デ・ブランにある各々の畑を調査し、土に含まれるミネラルが豊富で、究極の品質を備えたル・メニル・シュール・オジェのブドウが熟成に最適なワインを生み出すと判断し、畑を購入しました。純粋に自分たちが楽しむためのシャンパーニュ造りを目的としていた彼は、友人や家族と一緒に飲むためにごく少量しか造らず、趣味のシャンパーニュとしてスタートしました。
エメ・サロンは、地元のワイン醸造家である義兄から、ル・メニルのシャルドネは酸が非常に高く、その結果、力強く、直線的で、熟成能力の高いワインになると助言を受けていました。当時は、シャンパーニュの生産において、主要なブドウはピノ・ノワールで、シャルドネだけでは、バランスのとれた高品質のシャンパーニュを造るための十分なボディとストラクチャーを備えていないというのが通説であったため、シャルドネは重要視されていませんでした。
しかし、十分な熟成期間を与えることによって、複雑さとフィネスを備えた傑出したシャンパーニュができると考えたエメ・サロンは、最低でも10年間熟成させることにしたのです。
こうして、1911年に完成した最初のヴィンテージシャンパーニュ(1905年)は大好評で、同年、彼はル・メニル・シュール・オジェに1haのブドウ畑「ル・ジャルダン・ド・サロン」を購入しました。1920年、顧客の輪を広げるために誕生した「メゾン サロン」は、当時パリで最も格式の高いレストランの一つであったマキシムで、ハウスシャンパーニュとして採用されるなど躍進的に成長していきました。
1世紀の間に1クリュ、1ワイン、そしてわずか37のヴィンテージ
1928年、歴史に残るヴィンテージの年、ブドウの作柄が最高に良かった年にのみシャンパーニュを造ることが決定されました。平均して3年に1回。1世紀近く経った今でもそれは、変わらないリズムです。ディディエ・デュポン社長の言葉を借りれば「シャンパーニュの海の一滴」と言えます。それゆえに長期熟成のポテンシャルを持ったクオリティの高いシャンパーニュに仕上がり、稀少性と相まって、愛好家垂涎の世界で最も優れた高級シャンパーニュのひとつと称されています。
メゾンは、1943年に亡くなるまでエメ・サロンが率い、妹のアニーと甥のマルセル=ギヨームが引き継ぎましたが、彼はワイン事業にほとんど関心がなく、シェフ・ド・カーヴ任せでした。1963年、デュボネ社に売却しましたが、デュボネ社はシャンパーニュ・ブランドの発展にほとんど関心を示しませんでした。
1988年、ローラン・ペリエがサロンを買収し、状況は好転しました。現在、サロンは生産量の95%を海外へ輸出しています。日本は、メゾンの最初の市場であり、かなりの量のボトルが日本へ輸出されているとのことですが、富裕層の投機やパンデミックの反動で、世界的に値上げと品不足が広がっており、この神話的なサロンも例外ではなく、近年、ますます入手困難になってきています。
姉妹メゾン「シャンパーニュ ドゥラモット」
1988年、ドゥラモットとサロンがローラン・ペリエ・グループに加わって以降、両メゾンは常に姉妹の関係にありますが、ドゥラモットの品質が近年どんどん上がっていることは注目されています。もはや、ドゥラモットは、不作の年にサロンの受け皿となるだけのメゾンとという認識は間違ったものです。コート・デ・ブランの6つの村のグラン・クリュのブドウを使い始めた2008のミレジメから品質の向上が顕著に現れ、さらに、NVのブリュットとブラン・ド・ブランの品質を安定した形に保つことにメゾンは注力しています。キュヴェを4つのみに制限し、神経を集中させて育てていることが伺えます。
シャンパーニュは世界的な需要の高まりで、価格の上昇が激しく、ドゥラモットも例外ではありませんが、まだ比較的お手頃な価格で入手可能です。高品質でありながら早くから楽しめるドゥラモットは、見つけたら即購入をお勧めします。